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日本の離島 ISLAND


はじまり

レンタルスタジオスタッフ、カメラマンアシスタントと世に言う下積みを4年経てフリーランスとして活動することになった。フリーになったといっても仕事の依頼電話はなく白紙の手帳は机の引き出しに仕舞ったまま。仕事がないのでお金もない。ただ、自由な時間はたっぷりあった。
カメラを手にブラブラ街歩きするも「このままでいいのか?」と自問の日々。待ち続けるよりもここではないどこかへと出かけたいと思い、以前より憧れていた千年生きるという杉の森を見てみたいという理由から鹿児島県の屋久島を目指した。移動は青春18切符。鈍行列車で東京から鹿児島まで。ただ車窓を眺め続けていた。鹿児島港からフェリー。トビウオが伴走するように何匹も飛んでいる。2等船室に戻ると赤ちゃんが。先日、鹿児島市内の病院で生まれこれから屋久島の自宅へ帰るところ。こういったことから離島を実感した。いよいよ来たかと徐々に大きくなる島影を見つめていた。


2003 屋久島 鹿児島県 Yakushima Kagoshima

船は4時間で屋久島に。まずは宿探し。素泊まり2500円で自炊ができるドミトリーに。バスで移動と決めていたが便は少ないし料金も高い、さらに滝のような雨にも見舞われる三重苦でレンタカーを借りることに。林芙美子が小説「浮雲」で月に35日雨の降るところと記しているのはうなずける。樹齢7200年ともいわれる縄文杉を目指して登山。原生林の生命力にただただ圧倒される。かつて日本の山々はこのような姿だったのではないかと想いを馳せる。原生林を満喫し下山。その足で干潮時に現れる海中温泉へ。さらに水着着用の女子大生たちと混浴に。海水と温泉が混じりいい湯加減。まさに極楽。素泊まりの宿だが気のいい宿の主人が屋久島の芋焼酎と刺身を振る舞ってくれた。特にサバの刺身は脂がのっていて絶品だ。漁の後、すぐに首を折り血抜きするので、新鮮な刺身で食べられる。それを屋久島芋焼酎「三岳」で胃に流し込む。至福。集落を歩くと花が咲き、田んぼ、畑を見れば村人の丁寧な営みがある。海に囲まれた島はひとつの共和国、王国に見えた。海のない奈良に育った僕には強く眩しく新鮮で心を奪われた。


2003 種子島 鹿児島県 Tanegashima Kagoshima

屋久島滞在時、隣にある種子島から衛星を打ち上げるロケットの発射があると聞き種子島へ。連絡船のテレビでイラク戦争の開戦を知る。レンタカーは借りることができず、バスではロケット発射時刻に間に合わない。仕方なくタクシーを値切りサトウキビ畑の一本道を抜け宇宙センターへ。4km圏内は立ち入り禁止になるので発射台が見える丘へ。報道陣もチラホラ見える。三脚で場所取りをしてその時を待つ。このときひとつの懸念が。カラーフィルムで撮るかモノクロフィルムで撮るか。「ネガカラーならモノクロでも焼けるからカラーで。」と思いフィルムを装填する。緊張感が高まる。がしかし何か釈然としない。カラーフィルムを抜き取りモノクロフィルムを装填。ファインダーのなか白煙を上げ徐々に上昇していくロケット。轟音と地響きが届くころ機体は白煙を残し、あっという間に上空に消えた。無心にシャッターを切っていた。肉眼で白煙を眺めた。屋久島では千年来の森があり隣の種子島では金属の塊が宇宙に向かって飛んだ。船で1時間の距離なのに違いすぎた。縦に伸びる日本列島の離島を巡っていけばどれだけ違うことに出会えるだろうか。僕はここではないどこかへの旅に漠然と憧れていた。地図も磁石もないような状態だが、このとき日本の離島に向けて船をだそうと決めた。


2003 五島列島(中通島) 長崎県 Gotoh Nagasaki

東京駅からムーンライトながら号。車窓に流れる光景を眺め長崎まで鈍行列車。長崎在住の写真家東松照明さんにお会いすることができた。今何をしているか、そしてこれからの話し。写真家は常に現役なのだと教えてもらう。僕の肩にかかったPENTAX67をみて「まだそんなカメラを使ってるのか?今はコレだよ」とカバンからCanonのデジタルカメラを見せてくれた。写真は選択の連続だと言葉をいただいた。その夜、灯籠流し。爆竹の轟音、血の気の多い祭りに興奮したが鼓膜が破れないかと心配になる。翌日耳鳴りを伴い長崎港から五島列島へ。漁師の島。教会が点在する。入り江の港を見下ろす墓地には十字架のお墓。採れたての貝を浜で煮ていた漁師に「貝で一杯やろう」と招いてもらった。いつからかは知らないが代々キリシタンの家。部屋に祭壇がある。迫害から逃れることができたのは離島である所以だと。生まれ育ってから島を出たことがないから他のことはわからないが、先祖から受け取ったバトンを大事にしていると言う漁師。土地の風景は時間や想いが孕んでいる。その出会いは時代遅れで懐かしい光景ではなく生きていく根源の強さがあり、未来への繋がりと希望を与えてもらった。カメラを手に出かけることで自分の日本地図を描いているのかとも思った。

 


2003 奄美大島 鹿児島県 Amamioshima Kagoshima

山を覆う巨大な亜熱帯植物。むせ返るような強く神々しい自然の生命力に圧倒される。蝶々が飛び交い、鳥の声が響く。深呼吸すると自分も自然の一部になれた気がした。集落の並木は台風の影響か、大きく傾き一部は枯れ曲がりくねり、重なり合い木根を垂らすガジュマルの木。異様な姿でたたずみ集落を守る防風林としてそびえている。高い石垣に囲まれた家々。広場に土俵があり、そこで豊年祭が行われる。行事の日取りは月の満ち欠けによって定められた旧暦。男性は子供から順に相撲をとっていき女性は土俵を囲み舞を踊り五穀豊穣を祈る。黒糖焼酎のお神酒が振る舞われ決まり手も大技に。徐々に熱を帯びる戦いに歓声も大きくなっていく。最後は全員で土俵を囲み輪になって舞を踊りながら太鼓と鐘を打ち鳴らす。老若男女総出の祭りは、自然への畏怖と感謝に囲まれ温かい気持ちをいただいた。そして、お神酒の黒糖焼酎にすっかり酔った島人との熱い夜がはじまった。


2003 加計呂麻島 鹿児島県 Kakeromajima Kagoshima

奄美大島の南端、古仁屋港から20分の加計呂麻島へ。
人口、約1600人の島は、むせ返るほどの亜熱帯植物にコンコンと湧き出る水、豊かな自然に恵まれた島。戦時中、日本軍が米軍の襲撃を見張っていたと言われる岸壁から眺める海は言葉を失う美しさ。
諸鈍の海岸には、樹齢300年と言われるデイゴ並木が風に揺られている。5月には深紅の花を咲かせるそうだ。
早朝、昼間の熱気を忘れさせる冷やりとした空気に包まれた集落。野鳥のさえずりが心地よい。家屋の塀にはサンゴ礁が高く積み上げられ台風の雨風を防ぐ。廃屋には木々が生い茂り自然の強さと時間の重みが迫ってくる。カサカサと風をうけるサトウキビ畑を歩いていると「ハブにかまれるよ!」と注意された。「朝ご飯食べよう」と大きなガジュマルの木の下で休息をとる。日々の暮らしは「雨の日以外は太陽が高くのぼる前に畑仕事をすませて後はボーとしている」羨ましいと言うと「カメラ持ってウロウロしている君のほうがよっぽど羨ましい」と。


2008 黒島 鹿児島県 Kuroshima Kagoshima

鹿児島港は島々への離島航路が多数あり、行き先を港で迷える喜びがある。
三島村に点在する島々。活火山がある硫黄島に向かうつもりもジャンベのイベントがあるようでアフリカナイズされた団体が船の待合所を占拠している。急遽、進路を隣の黒島にした。
海から小高く台形になっている島影は小さな屋久島のような印象だ。
切り立った岸壁を砕いた港に接岸した。急な坂を登り、まずは宿探し。予約もしないで訪れたので宿の女将に泣き付き「何にも出来ないけど」という条件付きで了承をもらった。集落にはハイビスカスが咲き乱れ、蝶々が忙しく蜜を採っている。
島での行事を仕切る方と出会い、島の記録写真を見せてもらう。年々人口が減り、祭りも縮小しているが心意気は次世代に渡したい、それが私の役目だ。と、1960年代ころまで電信、電話もなく米がとれない土地ではサツマイモが主食だった。銀が浮いたモノクローム写真が机に広がっている。写真に写っている話を聞いていると、そこに立っているような気になる。目の前にたち現れた新しい過去はかつての光に優しく包まれていた。


2004 対馬 長崎県 Tsushima Nagasaki

港から街中にかけて目立つハングル文字。福岡より130km、韓国の釜山より50km。玄界灘に浮かぶ国境の島、対馬島。古くから大陸と日本の中継地として重要な役割を担っていた。いまは釜山から高速船で訪れる韓国からの観光旅行客が年々増えているそうだ。
山に桜が点々と咲き、春の陽気が心地よい。
縦に長い島の山々は、管理された杉林が広がる。その谷間に畑、田んぼがあり、港には魚が上がり、牧草地に牛が放牧されている。
島の南側。1年に何度か霞みが晴れ、釜山が見える岬がある。戦争で負傷して車椅子生活の方。働き口もなく、辛い思いもしたが、近隣の人の助けを受け食うに困ったことは一度もなかった。肉眼で見た異国の感動から、最近は毎日、岬に来るのが日課になっている。しかし、この日は釜山を見ることができなかった。
日本が海の国境に囲まれた島国であることを対馬は実感させてくれる。そして海に囲まれた離島は日本の縮図を見せてくれる。


2005 玄海島 福岡県 Genkaijima Fukuoka

九州の離島へ渡る航路が多くある福岡県博多港。2005年3月福岡県西方沖で起きた地震の被害を受けた玄海島へ。
周囲が4km、標高218mの遠見山。山の斜面に民家が集中し、細い路地が民家を縫う。島を襲った地震の威力は、家屋のほとんどを全半壊にし、島民のほとんどは港そばの少ない平地に立ち並ぶ仮設住宅で生活を過ごしている。
若い頃から段々畑での農作業や漁業をしていた彼らは高齢になり、足腰が悪いので身動きが簡単ではない。避難時は島民全員で協力したことで人的被害は少なくなった。全島民が知り合いで普段からコミュニケーションが密接にとれていたことがいきた。
今でも多くの島民が島を離れず住み続けている。
大漁旗をなびかせ漁船が入港した。地震の影響で故障した漁船が修理から戻ってきた。港には全島民が集まり、そこにめがけて餅やお菓子がまかれ、歓声が飛び交い、喜びを分かち合っている。「漁業を生業にしているので離れられないのもあるが、やっぱり生まれ育った、この島以外での生活は考えられない」という船長の言葉が胸に響いた。


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